
ジェイムズ・ジョイスの作品には、身近な人たちの存在が感じられるものが多い気がします。『ダブリナーズ』の家族の記憶や、『ユリシーズ』の友人たちの気配、そして『フィネガンズ・ウェイク』にも。
ここでは、そんなジョイスの創作に関わった人たちや、影響を受けた人物のこと、ジョイスの現在地がわかる年表をまとめました。作品読み解きのヒントとして、利用していただけたらうれしいです。ジョイスまわりの人々については、これから少しずつ追加していく予定です。
ジェイムズ・ジョイス(James Joyce, 1882–1941)
- アイルランド出身の作家・詩人。20世紀モダニズム文学を代表する存在。
- 「意識の流れ」などの革新的な技法で、ダブリンの人々と日常を描いた。
- 主な作品に『ユリシーズ』『フィネガンズ・ウェイク』『ダブリナーズ』『若い芸術家の肖像』。
- 人生の大半を欧州各地で過ごしながら、故郷ダブリンを創作の中心に据え続けた。
言語のこと
英語を母語とし、イタリア語・フランス語にも流暢(滞在地で自然に習得)。読書を通じてラテン語・ギリシャ語・ノルウェー語などにも親しみ、とくにノルウェー語はイプセンを原語で読むために学んだとされる。
母語:英語
生活言語:イタリア語
文学・議論:フランス語
読解:ドイツ語・ラテン語
ジョイスが実際に扱えた言語
英語(母語)
もっとも自由に使いこなした言語。
イタリア語(非常に流暢)
トリエステで10年以上生活。- 家庭内でも使っていた時期がある。
フランス語(流暢)
パリ滞在で自然に習得。- 文学的議論や翻訳作業が可能。
ドイツ語(実用レベル)
チューリッヒ滞在で使用。- 文献読解は問題なし。
ラテン語(学術的に強い)
学校教育で深く学習。- 作品中に頻出。
ノルウェー語(読書のために習得)
イプセンを原語で読むために独学したとされる。

ジェイムズ・ジョイスの年表
このページの年表や人物紹介は、Wikipediaなどの情報をもとに、CopilotのコポとGrok穴田の協力を得てまとめたものです。内容には誤りが含まれる可能性があります。正確な情報は各種資料をご確認ください。
- 1882年誕生
ダブリン(🇮🇪アイルランド)/Rathgar・41 Brighton Square
2月2日生まれ。10人兄弟の長男(幼くして亡くなった兄弟が他に2人)。父の浪費と失職により、家計はしだいに傾いていく。 - 1882年–1904年ダブリン内の頻繁な転居
ダブリン(🇮🇪アイルランド)
家族は19〜20軒(14〜22軒という説も)を転居。南部郊外(Rathgar, Rathmines, Bray, Blackrock)から、北部内市街(North Richmond Street など)へ移動。背景には経済的困窮。 - 1887年–1891年寄宿学校時代
ブレイ → キルデア(🇮🇪アイルランド)
家族でブレイへ移住。
1888–1891:Clongowes Wood Collegeに寄宿(費用未払いで退校)。 - 1893年–1898年中等教育
ダブリン(🇮🇪アイルランド)
Belvedere College(イエズス会校)に通学。 - 1898年–1902年大学時代
ダブリン(🇮🇪アイルランド)
University College Dublin在籍し、アイルランド語も学ぶ。
卒業後、短期間医学部へ進む。 - 1902年–1903年パリ留学と帰国
パリ(🇫🇷フランス) → ダブリン(🇮🇪アイルランド)
パリで医学・文学を学ぶ(Bibliothèque Sainte-Geneviève)。
母の危篤で帰国する。1903年8月に死去。 - 1904年ノラとの出会い・亡命
🇮🇪ダブリン → 🇬🇧ロンドン → 🇫🇷パリ → 🇨🇭チューリッヒ → 🇦🇹🇭🇺プーラ
6月16日、ノラと出会う(後のBloomsday〈ブルームズデー〉)。
10月、駆け落ちし、自発的亡命へ。
最初の仕事先はプーラのベルリッツ学校。
チューリッヒに1週間以上滞在するが、職は得られず。
1904年10月、プーラで英語教師として勤務。 - 1905年プーラ追放とトリエステ定住の始まり
🇦🇹🇭🇺プーラ → 🇦🇹🇭🇺トリエステ
3月、スパイ事件により外国人が追放され、プーラを離れる。
校長の助けでトリエステへ戻り、英語教師として働き始める(以後10年の大半を同地で過ごす)。
息子ジョルジオが誕生。プーラ(Pola)
当時:オーストリア=ハンガリー帝国領
現在:🇭🇷クロアチア
トリエステ(Trieste)
当時:オーストリア=ハンガリー帝国領
現在:🇮🇹イタリア(1919年のサン=ジェルマン条約でイタリア領に) - 1906年ローマ勤務とトリエステ帰還
🇦🇹🇭🇺トリエステ → 🇮🇹ローマ → 🇦🇹🇭🇺トリエステ
1906–07:ローマで銀行員として勤務するが街に馴染めず、トリエステへ戻る。 - 1907年–1914年トリエステ時代(最盛期)
トリエステ(🇦🇹🇭🇺オーストリア=ハンガリー帝国領)
1907:娘ルチア誕生。
『室内楽』(1907)出版。
『ダブリナーズ』は完成するも出版が遅れる。
『若き芸術家の肖像』執筆。
1909・1912年にダブリン短期帰国(1912が最後)。
家族で10軒以上の住所を転々(Via Bramante 4が最長滞在、Via Carducciなど)。
イタリア語・英語教師として生計を立て、イタロ・ズヴェーヴォと交流。
1914年末〜1915年初頭:『ユリシーズ』に着手。オーストリア=ハンガリー帝国領の言語
主要な公用語
・ドイツ語(German)
・ハンガリー語(Hungarian)
広く使われていた言語
・チェコ語(Czech)
・スロバキア語(Slovak)・ポーランド語(Polish)
・ルテニア語/ウクライナ語(Ruthenian / Ukrainian)
・スロベニア語(Slovene)
・セルビア・クロアチア語(Serbo-Croatian)
・ルーマニア語(Romanian)
・イタリア語(Italian)
・ユダヤ系の言語(Yiddish)
Wikipedia(英語):Austria-Hungary - 1915年–1919年第一次大戦と避難
チューリッヒ(🇨🇭スイス)
第一次世界大戦でトリエステを脱出し、家族でチューリッヒへ。
『ユリシーズ』の本格的な執筆が始まる。
眼疾が悪化し、チューリッヒで複数回の手術を受ける。 - 1919年–1920年戦後の一時帰還
トリエステ(🇮🇹イタリア)
戦後にトリエステへ戻るが、職や生活の困難から長くは留まれず、再び離れる。 - 1920年–1940年パリ時代(創作の頂点)
パリ(🇫🇷フランス)
エズラ・パウンドの招きで移住。
シルヴィア・ビーチ(Shakespeare and Company)の支援で、1922年2月2日(誕生日)に 『ユリシーズ』を出版。
1923〜1939:『フィネガンズ・ウェイク』執筆。
住所は rue de l’Odéon周辺。
1930年代、眼疾・家族問題でスイスへの短期滞在を繰り返す。 - 1931年ノラと正式結婚
ロンドン(🇬🇧イギリス)
7月4日、遺産や子どもの法的保護のために結婚手続きを行う。
生活の拠点は引き続きパリ。 - 1940年–1941年戦時避難
🇫🇷パリ → 🇫🇷サンジェラン=ル=ピュイ → 🇨🇭チューリッヒ
第二次世界大戦のためパリを離れる。ヴィシー政権下のサン=ジェラン=ル=ピュイを経て、中立国スイスのチューリッヒへ移動。 - 1941年死去
チューリッヒ(🇨🇭スイス)
1月13日、58歳で死去。
チューリッヒのFluntern Cemeteryに埋葬され、のちにノラも同じ墓地へ。
娘ルチアは精神疾患のため、長期の入院生活を送る。
ジェイムズ・ジョイスまわりの人々
少しずつ追加していきます。
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ノラ・バーナクル
ノラ・バーナクル(Nora Barnacle, 1884–1951)/妻
- アイルランド・ゴールウェイ出身。ホテルのメイドとして働いていた。
- 1904年6月16日、ダブリンでジョイスと出会い、のちにBloomsday〈ブルームズデー〉として記念される。
- 同年10月、ジョイスとともにダブリンを離れ、ヨーロッパ各地での生活を共にする。
- トリエステ・チューリッヒ・パリを経て、ジョイスの創作と生活を支え続けた。
- 読み書きは得意ではなかったが、その語り口や感性はジョイスの創作に影響し、『ユリシーズ』のモリー・ブルーム像にも一部反映された。
- 1931年、ロンドンで正式に結婚。
- 1951年、チューリッヒで死去し、ジョイスと同じFluntern Cemeteryに埋葬されている。
スタンニスロス・ジョイス
スタンニスロス・ジョイス(Stanislaus Joyce, 1884–1955)/弟
- ジェイムズ・ジョイスの弟。
- ダブリン時代から兄の創作を支え、批評的な助言を与え続けた。
- 1905年、兄を追ってトリエステへ移住し、語学教師として働きながら兄一家の家計を助ける。
- 兄の生活を支える一方で、日記や回想を残し、のちのジョイス研究の重要資料となった。
- 第一次世界大戦中にはオーストリア当局により収容されるが、戦後トリエステに戻る。
- 1955年、ローマで死去。
- 主著に回想録『My Brother’s Keeper』(1958)。
シルヴィア・ビーチ
シルヴィア・ビーチ(Sylvia Beach, 1887–1962)/書店主
- アメリカ出身の書店主。
- 1919年、パリに英語書店「シェイクスピア・アンド・カンパニー」を開き、亡命作家たちの拠点となる場をつくった。
- 1922年、他の出版社が出版を拒んだため、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を自ら刊行し、作家活動を支える。
- 第二次世界大戦中に店を閉じるが、戦後も文学者たちとの交流を続けた
『シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店 (河出文庫)』
シルヴィア・ビーチ,中山末喜
2023/03/07
河出書房新社
一九一九年、パリ・オデオン通りに伝説の書店は開かれた。ジョイス、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ジィド…国際色も豊かに多くの作家が集ったその書店の、書物への愛に満ちた輝かしい日々。『ユリシーズ』の出版社としても名高い店主が鋭い観察眼とユーモアで綴る、二〇世紀文学の舞台裏。
メアリー・コラム&パードリック・コラム
メアリー・コラム(Mary Colum, 1884–1957)/友人
- アイルランド出身の文学評論家。
- 夫パードリック・コラムはジョイスのUCD時代からの友人。
- パリ時代にはジョイス一家と家族ぐるみの親交があった。
- 『ユリシーズ』出版直後に好意的な初期レビューを書いた数少ない批評家。
- 夫婦共著の回想録 『Our Friend James Joyce』(1958) はジョイス研究の重要資料。
パードリック・コラム(Padraic Colum, 1881–1972)/友人
- UCD(University College Dublin)時代からのジョイスの友人、パリ時代も含め40年以上の親交
- 妻メアリーとともにジョイス作品の擁護者
- 『Our Friend James Joyce』共著
- 詩人・劇作家・フォークロア研究者
- James Joyce Society会長(20年以上)
『人生と夢と』
メアリー・コラム,多田稔,三神弘子,小林広直
2025/04/04
幻戯書房
1920~50年代、アメリカの文芸誌、新聞に160篇をも超える文芸評論や書評を寄せ、〈アメリカにおける最上の女性批評家〉と称されたアイルランド出身の作家メアリー・コラム。
文芸復興運動の渦中にあったダブリンで出会い、文学の〈師〉と仰いだ詩人W・B・イェイツとの友情。英国から独立する契機ともなったイースター蜂起の首領たちとの親交。詩人E・ワイリーやH・クレイン、T・S・エリオットとの交流、パリ滞在で旧交を温めたジェイムズ・ジョイス一家との付き合い……〈人びとのささやかな夢〉を活写し、20世紀初頭のアイルランド文学史を裏書きする文学的自伝・回想録。本邦初訳。
ジェイムズ・ジョイスに影響を与えた人物
文学・思想的影響
物語の骨格・世界の見方に関わる層
- エドゥアール・デュジャルダン
意識の流れの先駆的な試み(ジョイスがその技法的影響を認め、のちに再評価の契機となった)
創作素材の提供
人物造形・言語素材として作品に入った層
- アルフレッド・H・ハンター
『ユリシーズ』の主人公、レオポルド・ブルームの人物造形の核となった人物の一人 - 勝田孝興
「地震・雷・火事・親父」など、日本語の響きをFinnegans Wakeに届けた人
→ ジェイムズ・ジョイスに直接会った日本人のこと


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