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トマス・ピンチョンの年譜を作る/親愛なるピンチョンのこと、プロフィール、素敵なエピソードと豆知識

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トマス・ピンチョンの年譜を作る/親愛なるピンチョンのこと、プロフィール、素敵なエピソードと豆知識

トマス・ピンチョンのこと

プロフィール

Much Ad’oh About Nothing
For 28 seasons, “The Simpsons” has celebrated authors and their work through cameos and callouts. Sh...

Britannica
Thomas Pynchon | American Novelist, Postmodernist & Satirist

トマス・ピンチョン
アメリカの小説家、ポストモダニスト、風刺作家

トマス・ピンチョン(1937年5月8日、アメリカ合衆国ニューヨーク州ロングアイランド、グレンコーブ生まれ)は、アメリカの小説家、短編小説家であり、ブラックユーモアとファンタジーを融合させた作品で、現代社会の混沌の中での人間の疎外感を描いています。


トマス・ピンチョン – Wikipedia

現代のアメリカ文学を代表する小説家のひとりであり、1990年代以降定期的にノーベル文学賞候補に挙げられている。公の場に一切姿を見せない覆面作家として知られる。

作品は長大で難解とされるものが多く、SFや科学、TVや音楽などのポップカルチャーから歴史まで極めて幅広い要素が含まれた総合的なポストモダン文学である。


Fandom
Thomas Pynchon | Simpsons Wiki

『ザ・シンプソンズ』で2度声を演じた作家です。彼は「Diatribe of a Mad Housewife」で初めて登場し、人前で顔を見せるという彼の感受性に敬意を表して、頭に袋をかぶって登場しました。

主な作品

作品名翻訳者ページ数発売日
メイスン&ディクスン(上)柴田元幸544ページ2010/06/30
メイスン&ディクスン(下)柴田元幸560ページ2010/06/30
逆光(上)木原善彦864ページ2010/09/30
逆光(下)木原善彦848ページ2010/09/30
スロー・ラーナー佐藤良明320ページ2010/12/22
V.(上)小山太一,佐藤良明384ページ2011/03/31
V.(下)小山太一,佐藤良明400ページ2011/03/31
競売ナンバー49の叫び佐藤良明304ページ2011/07/30
ヴァインランド佐藤良明624ページ2011/10/31
LAヴァイス佐藤良明,栩木玲子544ページ2012/04/27
重力の虹(上)佐藤良明752ページ2014/09/30
重力の虹(下)佐藤良明752ページ2014/09/30
ブリーディング・エッジ佐藤良明,栩木玲子704ページ2021/05/26

 Wikipediaほか、主に英語の記事を元に書いています。あくまでピンチョンの人となりを理解するためのものですので、公式に使えるものではありません。

 一部わかりやすさのため、Google翻訳による表記を採用しているものも。正式な名前ではないので、そちらには(!)をつけています。

1950s 学生時代編

Thomas Pynchon Chronology 1
  • 1937年 0歳
    トマス・ピンチョン生誕

    ニューヨーク州ロングアイランド、グレンコーブで生まれる。

    毎年SNS上でイベントを開催。

    「ピンチョン・イン・パブリック」#pynchoninpublic は5月8日(Pさんの誕生日)に公の場所でピンチョンの作品を読んで、その写真を投稿するというイベント。

    木原善彦さんのXより

     父は、測量技師トマス・ラグルズ・ピンチョン・シニア(一時期は政治の世界に)。母、キャサリン・フランセス・ベネット・ピンチョンは看護師。長男で、妹と弟がいる。

     ピンチョン家はアメリカ最古の家柄のひとつ。父親はプロテスタントで母親はアイルランド系のカトリック。子ども達はカトリックとして育てられたよう。

     イギリス人入植者で、マサチューセッツ州スプリングフィールドの創設者として知られる。1650年に出版した小冊子は発禁に

     この真ん中のピンクの服の人→「ピンチョン氏とスプリングフィールドへの入植(!)」(1937年の絵画に「スマホを手にした先住民族の姿」が描かれていると話題に)。

     『重力の虹』のタイロン・スロースロップの祖先、ウィリアム・スロースロップは、たぶんこのピンチョンのご先祖がモデル。

     ちなみに松岡正剛の千夜千冊によると、ナサニエル・ホーソーンの長編小説『七破風の屋敷』はピンチョン家がモデルとなっていて、一族のピンチョン大佐が登場する。

     そして、1888年6月号のPhonographic World誌では、トマス・ピンチョンの先祖であるジョン・ピンチョンが「アメリカ初の速記記者」として紹介された。

  • 1953年 16歳
    オイスター・ベイ高校を卒業

    16歳、最優秀学生として卒業する。

     卒業する数か月前、オイスターベイ高校の新聞「パープル&ゴールド(!)」に、短編小説『サー・スチュピッドと紫の騎士の伝説(!)』が掲載される。ピンチョンは同誌の編集者でもあった。

     16歳のピンチョン。数少ない写真のうちの1枚。こちらの写真は、ピンチョンが編集者を務めていた同校の卒業アルバムのスタッフ集合写真から切り取られたもの。

  • 1953年 16歳
    コーネル大学へ入学

    同年秋、奨学金を得て、コーネル大学に入学、工学部応用物理工学科に所属。

     コーネル大学は、アイビーリーグの一角を占める米国屈指の名門校(コーネル大学のランキング)。

     アイビー・リーグは、アメリカ北東部に位置する8つの名門大学の連盟のこと。コーネル大学は、特に工学や自然科学、そして人文学の分野で優れた教育を提供しており、ピンチョンの作風に影響を与えたとされる。

  • 1955年 18歳
    アメリカ海軍に入隊

    ロングアイランド出身のピンチョンは、大学を一時休学し、入隊。2年間所属する。

     メリーランド州ベインブリッジのアメリカ海軍訓練センター(!)で新兵訓練に参加し、1955年から1957年まで海軍に所属。その後バージニア州ノーフォークの基地で電気技師になるための訓練を受けた。

     海軍時代の友人たちの回想によれば、ピンチョンは当時、大学教育を修了するつもりはなかったと語っていたという。

     ピンチョンの数少ない写真のうちの1枚がこの写真。ピンチョン18歳、訓練中のアメリカ海軍新兵だった頃のもの。その写真が、荒木飛呂彦さんの漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の第8部『ジョジョリオン』の主人公・東方定助にそっくりだと一部で話題となった。

    1. 多層的な物語構造
    2. 象徴と暗喩の多用
    3. ユーモアと風刺
    4. 独特なキャラクター描写
    5. 時間と空間の操作

    しかし、荒木飛呂彦Wikipediaの「趣味趣向・影響」欄には名前がない。

  • 1956年 19歳
    スエズ危機

    ピンチョンは、スエズ危機のさなか、地中海で駆逐艦USSハンクに乗船していた。

     スエズ危機(1956年)は、エジプトがスエズ運河を国有化したことをきっかけに起きた国際的な対立。スエズ動乱、第二次中東戦争ともいう。

     エジプトのナセル大統領が運河の国有化を宣言。すると、イギリス、フランス、イスラエルが反発し、エジプトに軍事侵攻を開始した。しかし、国際連合やアメリカ、ソ連の介入により停戦が成立し、侵攻は失敗。

     結果的に、エジプトのナセル大統領は、スエズ運河の国有化を維持し、アラブ世界での地位を強化した。

  • 1957年 20歳
    コーネル大学に復学

    コーネル大学に戻り、英文科に転科。

     コーネル大学で出会い、文学や創作について語り合う仲となる。ビート文化に触れたのもファリーニャの影響

     リチャード・ファリーニャはニューヨークのブルックリンで、アイルランド系の母親とキューバ人の父親の間に生まれる。フラットブッシュ地区の近くで育ち、ブルックリン実業高校に入学。

     コーネル大学の奨学金を得て、はじめは工学を専攻したが、途中で専攻を英語に切り替えた。

    San Narciso College Thomas Pynchon Home Page
    Richard Farina

    ピンチョンが親友ファリーニャについて書いた文章。(Wikipedia「Richard Fariña」の注釈リンクより)

     1948年から1959年まで、ウラジミール・ナボコフはコーネル大学でロシア文学の教授を務めていた。

     ピンチョンがナボコフの講義を受講していたことは、ナボコフの妻ヴェラが証言。レポートの採点を任されていて、ピンチョンの「半分活字、半分筆記体」という独特な手書き文字を覚えていた。

     ナボコフは、1955年に小説『ロリータ』、1957年に『プニン』、1962年に『青白い炎』を発表(いずれも英語で書かれた作品)。『ナボコフのロシア文学講義』という本もある。

    ポストモダニズムの巨匠トーマス・ピンチョン(1937年 – )は、コーネル大学在学中にナボコフの講義を聴いていた。

    文学的傾向と作品の両面でナボコフから多大な影響を受けたことは明らかだが、ピンチョンは「あの男のロシア語訛りは強すぎて、何を話しているのか理解できなかった」と語り、ナボコフも「それが誰だったか全く覚えていない」と述べている。

    ウラジーミル・ナボコフ – NamuWiki

    1. 言葉遊びや言語センス
    2. アイロニーとユーモア
    3. 複雑な構造と多層的な物語
    4. キャラクターの独特さ
    5. 知識の広範さ
    6. 音楽的要素
    6. ゲームの要素、チェスやパズル

  • 1958年 21歳
    ミュージカル「ミンストレル・アイランド」を執筆

    ピンチョンはカークパトリック・セールと共同で、ディストピアSFミュージカル「ミンストレル・アイランド」を執筆した(未完成であり未発表)。

     ミンストレルとは、原義では中世ヨーロッパの宮廷にいた吟遊詩人や宮廷道化師たちを指すが、アメリカではミンストレル・ショーに出演する芸人たちのことをミンストレルと呼んだ。

     ミンストレル・ショーとは、顔を黒く塗った(ブラックフェイス)白人(特に南北戦争後には黒人)によって演じられた、踊りや音楽、寸劇などを交えた、アメリカ合衆国のエンターテインメントのこと。

     ピンチョンの作品の「ミンストレル」が、具体的にどちらを指しているかはわからないが、多層的で象徴的な作品を書くピンチョンの文学スタイルを考えると、どちらの意味も含んでいる可能性がある。

  • 1959年 22歳
    短編「スモール・レイン」を発表

    3月、学内文芸誌『コーネル・ライター』で『スモール・レイン』を発表。この作品は自作解説つきの初期短編集『スロー・ラーナー』に収録されている。

     ファリーニャも、コーネル大学在学中に地元の小説雑誌や、「Transatlantic Review」や「Mademoiselle」などの全国誌に短編小説を掲載していた。

     しかし、彼はキャンパスの規則に反対する学生デモに参加した疑いで停学処分を受けてしまう。その後復学したが、卒業直前の1959年に中退した。

     この抗議行動については、ファリーニャの1966年の小説『Been Down So Long It Looks Like Up to Me』に描かれている。

     その後、ファリーニャはマンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジに移り住み、詩人やアーティスト、フォークシンガーたちと交流を深めた。

     カークパトリック・セールはコーネル大学で英語と歴史を専攻。在学中は学生新聞「コーネル・デイリー・サン(!)」の副編集長および編集長を務めた。ピンチョンと共同で「ミンストレル・アイランド」も制作した(未発表)。

     男女学生の親交を禁じる大学の方針と、親代わりの方針に反対する1958年5月の抗議行動のリーダーの一人で、セール、友人でルームメイトのファリーニャ、その他3人はコーネル大学から告訴された。セールは1958年にコーネル大学を卒業している。

  • 1959年 22歳
    コーネル大学を卒業

    最優秀の成績で卒業。卒業後、複数の大学院から奨学金のオファーを受けたが、それを断り、マンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジボヘミアン生活を送りながら小説『V.』の執筆を始める。

     グリニッジ・ヴィレッジはアーティストの天国、ボヘミアンの首都、現代のLGBTQ運動の発祥地。そして1960年代のビートジェネレーションとカウンターカルチャーの両方の東海岸の発祥の地。

Shipwreck Library
Uncollected Pynchon

未収録のピンチョン。エッセイ、短編小説、レビュー、紹介文、宣伝文が読めます。(英語)

1960s 就職、作家デビューへ

Thomas Pynchon Chronology 2
  • 1960年 23歳
    ボーイング社に就職

    ボーイング航空機会社でテクニカルライターとして勤務。地対空ミサイル「ボマーク」に関する技術文書を作成。2年間で務めたが辞め、その後は執筆に専念している。

     テクニカルライターとは、複雑な技術情報を分かりやすく整理し、文書化する専門職。簡潔で明確な言葉を使い、主観や感情は排除。正確性が重要視される。

     1960年代のアメリカは冷戦の真っ只中。軍事技術や宇宙開発が進展していたため、技術文書の需要が高まり、テクニカルライターの仕事の重要性も増していた。

    カート・ヴォネガットはテクニカルライターを次のように表現した。

    …自分の文章で自分自身についてほとんど何も明かさないように訓練されている。そのため、彼らは作家の世界では異端者となっている。なぜなら、その世界の他のインクまみれのろくでなしのほとんど全員が、読者に自分自身について多くのことを明かしているからだ。

    Technical writer – Wikipedia

     1960年、フォークシンガーのキャロライン・ヘスターと結婚。彼女の代理人として活動する。

     マンハッタンに戻ったファリーニャは、詩人、芸術家、フォークシンガーが頻繁に訪れるグリニッジ・ビレッジの有名な酒場、ホワイト・ホース・タバーンの常連客となり、トミー・メイケムと親しくなった。そこで彼は成功したフォークシンガーのキャロライン・ヘスターと出会う。彼らは18日後に結婚。彼らは2年も経たないうちに別れた。

  • 1962年 25歳
    長編小説『V.』を完成

    メキシコで長編小説『V.』を完成。翌年出版され、フォークナー賞を受賞する。

     『V.』は、ナボコフの小説に似ていると言われる。プロット、登場人物、語り口、そして文体。タイトルは『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』のナボコフの語り手「V.」を直接暗示している。

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