
ジェイムズ・ジョイスの現在地がわかるよう、生涯の流れをまとめた年表を作成しました。ジョイス自身が使用した言語や、職業の変遷についても整理しています。
ジョイスの作品は、人生の出来事や移動の多さと深く結びついているため、その時々の居場所をたどることで、作品の背景が見えやすくなるのではないかと思い、作成したものです。
このページは、Wikipediaなどの資料を手がかりにしながら、気になったところをAIに尋ねて確かめつつまとめています。その過程で、単なる記述だけでは見えにくい背景や小さな補足もそっと加えています。
ジェイムズ・ジョイスの主な作品と出版年


このページの年表や人物紹介は、Wikipediaなどの情報をもとに、CopilotのコポとGrok穴田の協力を得てまとめたものです。内容には誤りが含まれる可能性があります。正確な情報は各種資料をご確認ください。
ジェイムズ・ジョイスの年表
まだ、いろいろ追記します。
- 1882年誕生
ダブリン(🇮🇪アイルランド)/Rathgar・41 Brighton Square
2月2日生まれ。10人兄弟の長男(幼くして亡くなった兄弟が他に2人)。父の浪費と失職により、家計はしだいに傾いていく。 - 1882年–1904年ダブリン内の頻繁な転居
ダブリン(🇮🇪アイルランド)
家族は19〜20軒(14〜22軒という説も)を転居。南部郊外(Rathgar, Rathmines, Bray, Blackrock)から、北部内市街(North Richmond Street など)へ移動。背景には経済的困窮。 - 1880年代前半(幼少期)犬嫌い・雷雨恐怖の起源
ダブリン(🇮🇪アイルランド)
犬に噛まれた経験から、生涯にわたる犬嫌いとなる。敬虔な叔母に「雷は神の怒り」と教えられ、雷雨を恐れるようになる。 - 1887年–1891年寄宿学校時代
ブレイ → キルデア(🇮🇪アイルランド)
家族でブレイへ移住。
1888–1891:Clongowes Wood Collegeに寄宿。 - 1891年(9歳)パーネル死去と最初の詩作
ダブリン(🇮🇪アイルランド)
国民的指導者パーネルの死が街を揺らすなか、「Et Tu, Healy?」と題した詩を書く。
同じ年、父ジョンが破産宣告を受け休職。 - 1892年Clongowes退校
ダブリン(🇮🇪アイルランド)
父の破産により学費が払えず退校。
その後しばらく自宅やNorth Richmond StreetのChristian Brothers Schoolに通う。 - 1893年–1898年中等教育
ダブリン(🇮🇪アイルランド)
Belvedere College(イエズス会の名門校)に招聘されて入学。
ラテン語・修辞学の成績が優秀で、語学の基礎が形成される。 - 1898年–1902年大学時代
ダブリン(🇮🇪アイルランド)
University College Dublin(UCD)在籍。
Modern Languages(現代語学)を専攻し、フランス語・イタリア語・英語文学を学ぶ。
アイルランド語も履修。
卒業後、短期間医学部へ進む。 - 1902年–1903年パリ留学と帰国
パリ(🇫🇷フランス) → ダブリン(🇮🇪アイルランド)
パリで医学・文学を学ぶ(Bibliothèque Sainte-Geneviève)。
母の危篤で帰国する。1903年8月に死去。 - 1904年ノラとの出会い・亡命
🇮🇪ダブリン → 🇬🇧ロンドン → 🇫🇷パリ → 🇨🇭チューリッヒ → 🇦🇹🇭🇺プーラ
春、ダブリンの声楽コンクール(Feis Ceoil)に出場し、高い評価を受ける。
審査員から「プロの歌手になれる」と評されるが、最終的に文学の道を選ぶ。
エッセイ『芸術家の肖像』(A Portrait of the Artist)執筆。→ 後の『若き芸術家の肖像』の原型となる。
6月16日、ノラと出会う(後のBloomsday〈ブルームズデー〉)。
10月、駆け落ちし、自発的亡命へ。
最初の仕事先はプーラのベルリッツ学校。
チューリッヒに1週間以上滞在するが、職は得られず。
1904年10月、プーラで英語教師として勤務。 - 1905年プーラ追放とトリエステ定住の始まり
🇦🇹🇭🇺プーラ → 🇦🇹🇭🇺トリエステ
3月、スパイ事件により外国人が追放され、プーラを離れる。
校長の助けでトリエステへ戻り、英語教師として働き始める(以後10年の大半を同地で過ごす)。
息子ジョルジオが誕生。
『スティーヴン・ヒーロー』(Stephen Hero)執筆を継続。 → 1904〜1906年にかけて書かれた未完の長篇。後に大幅に改稿され、『若き芸術家の肖像』へつながる。プーラ(Pola)
当時:オーストリア=ハンガリー帝国領
現在:🇭🇷クロアチア
トリエステ(Trieste)
当時:オーストリア=ハンガリー帝国領
現在:🇮🇹イタリア(1919年のサン=ジェルマン条約でイタリア領に) - 1906年ローマ勤務とトリエステ帰還
🇦🇹🇭🇺トリエステ → 🇮🇹ローマ → 🇦🇹🇭🇺トリエステ
1906–07:ローマで銀行員として働くが、街の宗教的・官僚的な空気になじめず、短期間でトリエステへ戻る。
『スティーヴン・ヒーロー』執筆の後期。 → この時期の経験が、後の『若き芸術家の肖像』の改稿に影響。 - 1907年–1914年トリエステ時代(最盛期)
トリエステ(🇦🇹🇭🇺オーストリア=ハンガリー帝国領)
1907:娘ルチア誕生。
詩集『室内楽』(Chamber Music)出版。
短編「死者たち」(The Dead)執筆。(『ダブリン市民』収録作の中でも最も遅く書かれた作品。)
『ダブリン市民』はすでに完成しているが、出版は拒否され続ける。
『若き芸術家の肖像』の改稿作業を続ける(原型は1904年のエッセイ)。
1907–1908:英語教師として働き、イタロ・ズヴェーヴォと出会う。
1909:ダブリンで映画館「Volta Cinematograph」の経営に参加するが、短期間で撤退(文学以外の道を模索した時期)。
ダブリン短期帰国(1909・1912年に帰国、1912が最後)。
家族で10軒以上の住所を転々(Via Bramante 4が最長滞在、Via Carducciなど)。
1914年末〜1915年初頭:『ユリシーズ』執筆開始。オーストリア=ハンガリー帝国領の言語
主要な公用語
・ドイツ語(German)
・ハンガリー語(Hungarian)
広く使われていた言語
・チェコ語(Czech)
・スロバキア語(Slovak)・ポーランド語(Polish)
・ルテニア語/ウクライナ語(Ruthenian / Ukrainian)
・スロベニア語(Slovene)
・セルビア・クロアチア語(Serbo-Croatian)
・ルーマニア語(Romanian)
・イタリア語(Italian)
・ユダヤ系の言語(Yiddish)
Wikipedia(英語):Austria-Hungary - 1915年–1919年
- 1919年–1920年戦後の一時帰還
トリエステ(🇮🇹イタリア)
戦後にトリエステへ戻るが、職や生活の困難から長くは留まれず、再び離れる。
『ユリシーズ』の執筆は継続中。1914年末から始まった執筆は、この頃には中盤〜後半へ。トリエステでの生活の不安定さが、作品の進行にも影響する。 - 1920年–1940年パリ時代(創作の頂点)
パリ(🇫🇷フランス)
エズラ・パウンドの招きでパリへ移住。文学仲間との交流が増え、創作環境が大きく改善する。
1920〜1921年:『ユリシーズ』最終章(特にモリーの独白)を執筆。パリでの安定した環境が、作品の完成を後押しする。
シルヴィア・ビーチ(Shakespeare and Company)の支援を受け、1922年2月2日(ジョイスの誕生日)に『ユリシーズ』出版。 世界文学史に残る出来事となる。
1923〜1939:『フィネガンズ・ウェイク』執筆。
住所は rue de l’Odéon周辺。
『ユリシーズ』出版後すぐに次作へ取りかかり、16年をかけて“夜の書物”を構築していく。
雑誌連載時の仮題はWork in Progress。
1924年頃から、複数の文学雑誌に断続的に断片(抜粋)が分載され始める。
1927年、詩集『ポームズ・ペニーチ』(Pomes Penyeach)出版。タイトルは “poems penny each” の語呂合わせ。1シリング=12ペンスに1篇“おまけ”がつく、全13篇の遊び心のある小さな詩集。
1930年代、眼疾の悪化や、娘ルチアの心の揺れも重なり、家族でスイスへの短期滞在を繰り返す。 - 1931年ノラと正式結婚
ロンドン(🇬🇧イギリス)
7月4日、遺産や子どもの法的保護のために結婚手続きを行う。
生活の拠点は引き続きパリ。
『フィネガンズ・ウェイク』はこの頃から、断片の発表を続けつつ“全体の構成”へと作業が移っていく。 - 1932年孫スティーヴン誕生
パリ(🇫🇷フランス)
息子ジョルジオとヘレン・カステラニの子として、ジョイスの初孫スティーヴンが生まれる。のちに『猫と悪魔』の宛先となり、晩年のジョイスにとって静かな喜びとなる。 - 1936年『猫と悪魔』を書く
パリ(🇫🇷フランス)
孫スティーヴンに宛てた手紙の中で、フランスのボージャンシーの橋の逸話をもとにした短い童話『猫と悪魔』を書く。ジョイスが残した唯一の児童向け作品で、家族への親しみがにじむ小さな物語。死後の1965年に絵本として出版される。 - 1931〜1939年『フィネガンズ・ウェイク』最終稿の執筆・完成・出版
パリ(🇫🇷フランス)
Work in Progressとして文学雑誌へ分載していた断片をもとに、全体の循環構造をゆっくり固めていく時期。
1930年代に入ると、眼疾の悪化や家族の問題が重なり、 執筆は不安定になりながらも続けられる。 助手(ポール・レオンら)たちの助力を得て最終稿が整い、1939年5月4日、ロンドンとニューヨークで同時に単行本として刊行される。
タイトルFinnegans Wakeは出版当日まで伏せられていた。ジョイス58歳。これが生涯最後の長篇となる。 - 1940年–1941年戦時避難
🇫🇷パリ → 🇫🇷サンジェラン=ル=ピュイ → 🇨🇭チューリッヒ
第二次世界大戦のためパリを離れる。ヴィシー政権下のサン=ジェラン=ル=ピュイを経て、中立国スイスのチューリッヒへ移動。 - 1941年死去
チューリッヒ(🇨🇭スイス)
1月13日、58歳で死去。
チューリッヒのFluntern Cemeteryに埋葬され、のちにノラも同じ墓地へ。
娘ルチアは精神疾患のため、長期の入院生活を送る。
ジェイムズ・ジョイスの言語のこと
英語を母語とし、イタリア語・フランス語にも流暢(滞在地で自然に習得)。読書を通じてラテン語・ギリシャ語・ノルウェー語などにも親しみ、とくにノルウェー語はイプセンを原語で読むために学んだとされる。
母語:英語
生活言語:イタリア語
文学・議論:フランス語
読解:ドイツ語・ラテン語
ジョイスが実際に扱えた言語
英語(母語)
もっとも自由に使いこなした言語。
イタリア語(非常に流暢)
トリエステで10年以上生活。家庭内でも使っていた時期がある。
フランス語(流暢)
パリ滞在で自然に習得。文学的議論や翻訳作業が可能。
ドイツ語(実用レベル)
チューリッヒ滞在で使用。文献読解は問題なし。
ラテン語(学術的に強い)
学校教育で深く学習。作品中に頻出。
ノルウェー語(読書のために習得)
イプセンを原語で読むためにDano‑Norwegianを習得したとされる。
※アイルランド語は大学で履修したが、実際の運用は限定的で、文学活動の中心にはならなかった。
ジェイムズ・ジョイスの職業の変遷
① 〜1904
学生・声楽家志望・文筆の萌芽(ダブリン)
- University College Dublin で Modern Languages を学ぶ
- 声楽コンクール(Feis Ceoil)で高評価
- 文学サークルで批評・創作
- まだ職業としての収入はない
② 1904–1905
英語教師(プーラ)
- ベルリッツ学校で英語教師として勤務
- 給料は低く、生活は不安定
- 初めての安定した職
③ 1905–1915
英語教師+個人レッスン(トリエステ)
④ 1915–1919
英語教師+パトロンの支援(チューリッヒ)
- 第一次大戦で避難
- 英語教師を続けるが収入は不安定
- ハリエット・ウィーバーからの支援が始まる
- 作家として支えられる構造が生まれる
⑤ 1920–1940
作家中心の生活(パリ)
- 『ユリシーズ』出版(1922)
- 翻訳料・寄稿・講演・パトロンの支援
- 教師の仕事はほぼしない
- この時期から実質的に作家一本
- ただし収入は支援と寄稿が中心
⑥ 1940–1941
執筆に専念(チューリッヒ)
- 視力悪化
- 亡命生活
- 晩年は執筆に専念する時期となる
まとめ
- 英語教師として働いていた期間が長い(1904〜1919)
- 作家一本になったのは『ユリシーズ』出版後(1922〜)
- 地域の移動がそのまま職業の変遷につながっている


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